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日本にいるなら日本語で話せ 2
更新期間があいてしまいましたが前回のエントリーに、多くのご意見をいただきありがとうございました。私は特に意見をまとめるつもりもなし、結論もだせません。答はサンタクロースのように皆さんの心の中にあります。
こういう意見は数学のように答が1つビタっと出るものではなく、立ち位置やスタンスによって「正しさ」が変化すると思うし、世の中の対立する意見の大半は交通事故の原因ように10:0でどっちかに偏ることもないと思う。どちらの言い分も、一理あるだろうし、一面の真理でもあるのでしょうね。
少し気になったことを書き留めておきます。
1 「英語」と「その他の外国語」は分けて考えるべきだと思いました。
「日本にいるなら日本語で話せ」に続く言葉は「英語で話しかけるな」と「タイ語で話しかけるな」では、異なったものと考えるべきでしょう。英語には「世界の公用語」としての性質が、備わりつつあるからです。誰かが認定したわけではなく「デファクト・スタンダード」としての公用語ですね。
言語の人口では中国語、スペイン語、英語ぐらいの順位だったと思うけど、英語を母国語としている人の3倍が英語を「外国語」として使っている事実があります。英語を「準公用語」と認定している国(インド・シンガポールなど)も多い。この点においては、英語はもう母国語としている人だけのものではないでしょう。5大陸に渡って浸透している英語という言語は、人類の歴史の中でも珍しいものだし、今後、英語にとってかわる「世界の共通語」が登場することもないと思う。
日本国内では「日本語」が標準ではあるけど、日本を世界の一部とみなした場合には「世界標準」が標準としての機軸を持ってしまう。どちらに賛同するか? ここは考え方の違いになるでしょう。「そんな標準は認めない」と強弁することはできる反面、英語が世界言語としての性質を持つとき私達も恩恵を受けることができます。
2 「郷に入れては郷にしたがえ」という考え方
これは日本のことわざだし、私もこの意見に賛成します。書いてる時も頭の中をよぎりました。その場のルールに従うことは、世界は違えども、それぞれのコミュニティーで似たような発想ができあがり、似たようなことわざがあると思う。
ただ、相手が「郷に入りては」という発想を持たない人種が来た場合はどう対応するのだろうか? と疑問に思いました。誤解を恐れずに書くならば、アングロサクソンの歴史は、この手の発想に基づいているんじゃないかと思う。インディオやアボリジニは「郷に入りては」に似たようなことは主張しなかったんでしょうか。相手への敬意を払うこと、他国の文化を尊重する精神は大切だけど、時にはそうでない人とも出くわす可能性もある。言葉を広めたのは「船乗りと兵士」と言うけど、こういう点では、アングロサクソンの国はパワフルですね。こういう場合にどう対応するのかは課題が残りますね。
アングロサクソン、アメリカ人、イギリス人、とグループでくくると「個人個人で違う・個別の要因を無視している・人によって違う」という批判を受けると思うけど、私はカテゴリーをくくりステレオタイプに表現することが無意味だとは思いません。彼らの平均値がどこにあるのか? を知ることは有意義なことであると感じています。
「個人的なことは、政治的なことである」というのは、確かフェミニズム関係のテーゼだったと思うけど、一理あるような気がします。例えば「英語圏の出身で日本に来ているけど、日本語を覚えようとしない」というのは、もちろん個人の怠惰など個別の原因ではあると思うけど、その人が日本で日本語なしで生活できてしまう状況を作り上げているのは、政治的・社会的な背景と密接につながっている。個人の問題を越えて、より複雑な社会的な問題を包括しているのだと思います。
3 「英語圏の人に見れる傲慢さ」や「嫉妬」や「ねたみ」といった感情
英語圏の人にどれほどの傲慢さがあるのかは私には判断がつきません。もちろん、人にもよるだろうけど、平均的な意識がどのへんにあるのかはわかりません。
この前の夏、中国のマッサージ屋さんに行って「中国式・タイ式・日本式」を選ぶ場面に出くわして、現地の言葉がわからず、英語で「チャイニーズ・スタイル」と言っても通じなかった。「なんでこんな英語もわからんねん!」と思って、ハっとした記憶があります。自分でも気付かなかった、私の中にある傲慢さに気付いた気がしました。「英語はどこにいっても通じる」と変な勘違いをしていたように思うし、この手の勘違いは時に傲慢さを生み出す原因となりえます。
日本人側の意見として「自分が英語が話せないことへの負い目」や「なぜか英語が標準になりつつある現状」に対しての嫉妬から生まれる意見があっても不思議ではないと思う。ニーチェいうところの「ルサンチマン」みたいなものです。
英語圏の人が持つある種の「傲慢さ」や、非英語圏の人が抱く「嫉妬」などの感情、この手の感情は道徳的・常識的な観点からいえば、あまり良い感情ではないと判断できるけど、別に持っていてもかまわないと思う。人間はそういう生き物だと思うし、聖人君子ではないので多少なりともみんなが持ち合わせている感情でしょう。正論をどんなけ言われても感情的に納得できないこともあるので。
4 日本で日本語を話すことの実用性について
これについては言わずもがなです。グローバル化が叫ばれているけど、本当にそうなんか? と、うちの母親を見てると感じてしまいます。
一緒に働いている外国人に関しては本当にいい人だし、私はとても感謝しています。人間的にも尊敬できるし、なにより友達でもある。だけど、日本語を話そうとしない点に関しては不満が正直なところあります。
「日本語を話さない外国人」に対しての風当たりの強さは私も自覚しているから、せめて、自分の周りにいる人には、それを回避してほしいと願う。本当は会社として日本語教育の制度を作ったりしないといけないんだろうなぁ、と日々感じています。どうしたもんでしょうか。
と、同時に「日本語を話さなくても生活できてしまう環境」を作りあげているのは日本人側にある。これも考え方で良し悪しであって、ある意味で「日本語を話さなくても英語だけでなんとなく生活できてしまう日本」は、日本の英語教育の成果であって、ものすごい努力の結果であると考えると、すごいポジティブだね。
皆様、ご意見ありがとうございました。個別の返事ができない量になりましたので割愛させていただきます。何か追加で書きたいことがあればご自由にお書きください。
AMAZONより。今回のエントリーを書くにあたって参考にさせてもらいました。なかなか読ませてくれる本ですので、推薦しておきます。
こういう意見は数学のように答が1つビタっと出るものではなく、立ち位置やスタンスによって「正しさ」が変化すると思うし、世の中の対立する意見の大半は交通事故の原因ように10:0でどっちかに偏ることもないと思う。どちらの言い分も、一理あるだろうし、一面の真理でもあるのでしょうね。
少し気になったことを書き留めておきます。
1 「英語」と「その他の外国語」は分けて考えるべきだと思いました。
「日本にいるなら日本語で話せ」に続く言葉は「英語で話しかけるな」と「タイ語で話しかけるな」では、異なったものと考えるべきでしょう。英語には「世界の公用語」としての性質が、備わりつつあるからです。誰かが認定したわけではなく「デファクト・スタンダード」としての公用語ですね。
言語の人口では中国語、スペイン語、英語ぐらいの順位だったと思うけど、英語を母国語としている人の3倍が英語を「外国語」として使っている事実があります。英語を「準公用語」と認定している国(インド・シンガポールなど)も多い。この点においては、英語はもう母国語としている人だけのものではないでしょう。5大陸に渡って浸透している英語という言語は、人類の歴史の中でも珍しいものだし、今後、英語にとってかわる「世界の共通語」が登場することもないと思う。
日本国内では「日本語」が標準ではあるけど、日本を世界の一部とみなした場合には「世界標準」が標準としての機軸を持ってしまう。どちらに賛同するか? ここは考え方の違いになるでしょう。「そんな標準は認めない」と強弁することはできる反面、英語が世界言語としての性質を持つとき私達も恩恵を受けることができます。
2 「郷に入れては郷にしたがえ」という考え方
これは日本のことわざだし、私もこの意見に賛成します。書いてる時も頭の中をよぎりました。その場のルールに従うことは、世界は違えども、それぞれのコミュニティーで似たような発想ができあがり、似たようなことわざがあると思う。
ただ、相手が「郷に入りては」という発想を持たない人種が来た場合はどう対応するのだろうか? と疑問に思いました。誤解を恐れずに書くならば、アングロサクソンの歴史は、この手の発想に基づいているんじゃないかと思う。インディオやアボリジニは「郷に入りては」に似たようなことは主張しなかったんでしょうか。相手への敬意を払うこと、他国の文化を尊重する精神は大切だけど、時にはそうでない人とも出くわす可能性もある。言葉を広めたのは「船乗りと兵士」と言うけど、こういう点では、アングロサクソンの国はパワフルですね。こういう場合にどう対応するのかは課題が残りますね。
アングロサクソン、アメリカ人、イギリス人、とグループでくくると「個人個人で違う・個別の要因を無視している・人によって違う」という批判を受けると思うけど、私はカテゴリーをくくりステレオタイプに表現することが無意味だとは思いません。彼らの平均値がどこにあるのか? を知ることは有意義なことであると感じています。
「個人的なことは、政治的なことである」というのは、確かフェミニズム関係のテーゼだったと思うけど、一理あるような気がします。例えば「英語圏の出身で日本に来ているけど、日本語を覚えようとしない」というのは、もちろん個人の怠惰など個別の原因ではあると思うけど、その人が日本で日本語なしで生活できてしまう状況を作り上げているのは、政治的・社会的な背景と密接につながっている。個人の問題を越えて、より複雑な社会的な問題を包括しているのだと思います。
3 「英語圏の人に見れる傲慢さ」や「嫉妬」や「ねたみ」といった感情
英語圏の人にどれほどの傲慢さがあるのかは私には判断がつきません。もちろん、人にもよるだろうけど、平均的な意識がどのへんにあるのかはわかりません。
この前の夏、中国のマッサージ屋さんに行って「中国式・タイ式・日本式」を選ぶ場面に出くわして、現地の言葉がわからず、英語で「チャイニーズ・スタイル」と言っても通じなかった。「なんでこんな英語もわからんねん!」と思って、ハっとした記憶があります。自分でも気付かなかった、私の中にある傲慢さに気付いた気がしました。「英語はどこにいっても通じる」と変な勘違いをしていたように思うし、この手の勘違いは時に傲慢さを生み出す原因となりえます。
日本人側の意見として「自分が英語が話せないことへの負い目」や「なぜか英語が標準になりつつある現状」に対しての嫉妬から生まれる意見があっても不思議ではないと思う。ニーチェいうところの「ルサンチマン」みたいなものです。
英語圏の人が持つある種の「傲慢さ」や、非英語圏の人が抱く「嫉妬」などの感情、この手の感情は道徳的・常識的な観点からいえば、あまり良い感情ではないと判断できるけど、別に持っていてもかまわないと思う。人間はそういう生き物だと思うし、聖人君子ではないので多少なりともみんなが持ち合わせている感情でしょう。正論をどんなけ言われても感情的に納得できないこともあるので。
4 日本で日本語を話すことの実用性について
これについては言わずもがなです。グローバル化が叫ばれているけど、本当にそうなんか? と、うちの母親を見てると感じてしまいます。
一緒に働いている外国人に関しては本当にいい人だし、私はとても感謝しています。人間的にも尊敬できるし、なにより友達でもある。だけど、日本語を話そうとしない点に関しては不満が正直なところあります。
「日本語を話さない外国人」に対しての風当たりの強さは私も自覚しているから、せめて、自分の周りにいる人には、それを回避してほしいと願う。本当は会社として日本語教育の制度を作ったりしないといけないんだろうなぁ、と日々感じています。どうしたもんでしょうか。
と、同時に「日本語を話さなくても生活できてしまう環境」を作りあげているのは日本人側にある。これも考え方で良し悪しであって、ある意味で「日本語を話さなくても英語だけでなんとなく生活できてしまう日本」は、日本の英語教育の成果であって、ものすごい努力の結果であると考えると、すごいポジティブだね。
皆様、ご意見ありがとうございました。個別の返事ができない量になりましたので割愛させていただきます。何か追加で書きたいことがあればご自由にお書きください。
AMAZONより。今回のエントリーを書くにあたって参考にさせてもらいました。なかなか読ませてくれる本ですので、推薦しておきます。
![]() | あえて英語公用語論 (文春新書) 船橋 洋一 関連商品 論争・英語が公用語になる日 (中公新書ラクレ) 英語はいらない!? (PHP新書) 日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書) 英語支配の構造―日本人と異文化コミュニケーション 英語支配とは何か―私の国際言語政策論 by G-Tools |
日本にいるなら日本語で話せ
どなたか詳しい方にお聞きしたいのですが「日本にいるなら日本語で話せ」は、よく耳にする言葉だし、イライラした時は私もいいそうになるセリフなんだけど、この主張の根拠は何になるんでしょうか? 禅問答でも遠まわしな嫌味でもなく、私はこの主張の根拠がいまいちよくわかってないので、論理的に教えてほしいです。
日本国内の法律で日本語で話せと定められているならば理解できるんだけど、絶対に日本語を話さなければいけないわけではない。例えば、このBLOGで知り合った彼らでもいいし、道端で英語で道を聞かれた時でもいいけど、話をしている場合は英語になる。私は思ってることがうまく伝えられない。イライラしてくる。
「なんでオレが英語で話さないといけないのか? ここは日本なんだから日本語で話せよ」こんな場面はけっこう日常に溢れています。
「日本にいる以上は日本語で話せ」は、それが「常識」だからなんでしょうか? 「マナーの問題」なのか? あるいは村上春樹風に語るところの『日本にいる時は日本語で話す。そういうものだ』の「そういうもん」として納得するものなのか? それともグラップラー刃牙風の『日本にいる以上は日本語で話さないといけない。そんな風に考えていた時期がオレにもありました・・・』みたいな話になるんでしょうか?
彼らとのやり取りの中で、どうも意見が食い違う場面がありました。これは日本人同士でもあることだから特別なわけじゃないと思う。そんな時に、私はたまに感情的になって言いそうになるセリフがあります。
「ここは日本なんだから!」
けど、これは自分の中で言ってはいけないセリフだと感じています。本当にこの手のセリフを言うと、相手の外国人は何もいえなくなりそうな気もする最終的なものだと思う。それに、危うさを孕んだ言葉だと。言いたくない一番の理由は、私の中では「ここは日本なんだから」と根拠がわからないまま強弁することは、論理的な思考を放棄してヒステリックに叫ぶことと同義のように思えたからです。
外国人に向かってこのセリフを言った場合「ここは日本なんだから」に続く言葉や心情は「だから日本人である私の意見が正しい」「だから日本人である私の意見を聞け」みたいなことだと思う。似たようなセリフとして「ここはお前らの国じゃないだろ」というのもあります。
こう言いたくなる気持ちはわかる。だけど、ここが日本で、私は日本人であったとしても、それが私の意見や主張が正しいという保証には、まったくなっていないのも事実です。
私から皆さまにお聞きしたいご意見は以下の2点
・日本にいる以上は日本語で話せ という主張の正当性はあるのか? あるとしたら、その根拠は何なのか?
・ここは日本だから日本人の意見が正しい、というのは無理のある話だと思っていいんでしょうか? だったら「ここは日本なんだから」みたいなセリフは避けるべきものであると考えてよろしいでしょうか?
何かご意見あればお願いします。
なんでもいいですよ。
日本国内の法律で日本語で話せと定められているならば理解できるんだけど、絶対に日本語を話さなければいけないわけではない。例えば、このBLOGで知り合った彼らでもいいし、道端で英語で道を聞かれた時でもいいけど、話をしている場合は英語になる。私は思ってることがうまく伝えられない。イライラしてくる。
「なんでオレが英語で話さないといけないのか? ここは日本なんだから日本語で話せよ」こんな場面はけっこう日常に溢れています。
「日本にいる以上は日本語で話せ」は、それが「常識」だからなんでしょうか? 「マナーの問題」なのか? あるいは村上春樹風に語るところの『日本にいる時は日本語で話す。そういうものだ』の「そういうもん」として納得するものなのか? それともグラップラー刃牙風の『日本にいる以上は日本語で話さないといけない。そんな風に考えていた時期がオレにもありました・・・』みたいな話になるんでしょうか?
彼らとのやり取りの中で、どうも意見が食い違う場面がありました。これは日本人同士でもあることだから特別なわけじゃないと思う。そんな時に、私はたまに感情的になって言いそうになるセリフがあります。
「ここは日本なんだから!」
けど、これは自分の中で言ってはいけないセリフだと感じています。本当にこの手のセリフを言うと、相手の外国人は何もいえなくなりそうな気もする最終的なものだと思う。それに、危うさを孕んだ言葉だと。言いたくない一番の理由は、私の中では「ここは日本なんだから」と根拠がわからないまま強弁することは、論理的な思考を放棄してヒステリックに叫ぶことと同義のように思えたからです。
外国人に向かってこのセリフを言った場合「ここは日本なんだから」に続く言葉や心情は「だから日本人である私の意見が正しい」「だから日本人である私の意見を聞け」みたいなことだと思う。似たようなセリフとして「ここはお前らの国じゃないだろ」というのもあります。
こう言いたくなる気持ちはわかる。だけど、ここが日本で、私は日本人であったとしても、それが私の意見や主張が正しいという保証には、まったくなっていないのも事実です。
私から皆さまにお聞きしたいご意見は以下の2点
・日本にいる以上は日本語で話せ という主張の正当性はあるのか? あるとしたら、その根拠は何なのか?
・ここは日本だから日本人の意見が正しい、というのは無理のある話だと思っていいんでしょうか? だったら「ここは日本なんだから」みたいなセリフは避けるべきものであると考えてよろしいでしょうか?
何かご意見あればお願いします。
なんでもいいですよ。
捕鯨めぐり日豪ネット摩擦
話題になってるニュースがあるので取り上げます。すでに知ってる人も多いと思いますが。
領事館に反捕鯨団体赤インク「ぶちまけ」 検挙せずに豪州非難がネットで高まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071228-00000004-jct-soci
捕鯨めぐり日豪ネット摩擦 YouTube動画にコメント1万5000件
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/09/news061.html
問題の動画:白豪主義オーストラリアと反捕鯨(音がでます)
http://www.youtube.com/watch?v=e8lvep0-Ii0
捕鯨問題があるのは知ってましたが、何が争点なのかよくわからなかったので少し調べてみました。ウェキペディアによると以下の7点からです。
・資源としてのクジラ
・自然保護問題としてのクジラ
・知的生物としてのクジラ
・文化としての捕鯨
・原住民生存捕鯨
・ホエールウォッチングとの対立
・人道的捕殺問題
捕鯨賛成派の国は「日本、ノルウェー、アイスランド、デンマーク、ロシア、モロッコ、カンボジア」など。反対派は「英国、米国、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランド、フィンランド、フランス、スペイン、ドイツ、イスラエル」などです。
双方が様々な見地からの意見があって、文化・歴史・宗教的な背景もあり、おそらく利権も絡んでいるだろうから、恐ろしく複雑で噛み合っていない印象を受けます。YOUTUBEのコメント欄は各国が入り乱れての荒れ模様ですね。
活動家以外の一般市民がどの程度のレベルで、どういった感情を「捕鯨」に対して抱いているかわかりませんが、友達のカナディアンと話をしてみました。
「例えば、世界には犬を食べる習慣があるやんか。そういう話を聞くと現代日本人的には、やや不快感に近いものを感じるんだけど、この感情と西洋の国、たとえばカナダ人が「あの人達はクジラを食べいる」と聞いた時に感じる感情は同じようなもんなの?」
「その感情が同じものかは、なんともいえないけど、捕鯨に反対してる人って、いわゆる絶滅寸前だから、とかの側面が強いんじゃないかな」という答えでした。YOUTUBEの画像を一緒に見てたわけだけど、カナダ人の彼はさほど捕鯨に何も意見はないという具合でした。
捕鯨問題に関してさしあたって私は明確な主張があるわけではないけど、文化的な側面からの批判は避けるべきものであると感じています。自分とこの物差しで、相手を計ろうとするのは無理があるように思うし。
犬を食べていると聞いたら、多少の違和感を覚えることはあるけど、それはそこの国の習慣であって、部外者がとやかく言うことではないと思う。カンガルーにはごく一般的なかわいいイメージしか持っていないけど、それを食べる国があっても私は何も主張することもないだろうし。それが実生活に直結する生業ならば、なおのことです。
ただし、動物愛好家が「かわいそうだから」などの理由で、犬やカンガルーを食べたりすることに反対する心情は理解できるし、人間としては自然な感情のように思います。
国や文化、宗教関係の物差しを越えて、私達がもてる唯一の共通の尺度は、やっぱり「地球規模の環境保護」という観点からだと思うけど、双方の主張が食い違っているので、ここは話し合うしかないんでしょう。
動画の作者がどこの国の人で、動画の内容がどこまで信憑性のあることなのかはわからないけど、世間に訴える手法としてこれ以上ないぐらいに成功しています。その手法は素晴らしい。
---追記---
と、書いてみたものの「地球規模の環境保護」も、かなりうさん臭さを踏んだ言葉ともとれますね。
何かの本で読んだ記憶があるけど「多少の軋轢を残したまま永遠に話し合いを続けて引き伸ばし続ける」という、解決にはいたらない解決方法みたいな話もありなんじゃないかと思いました。
領事館に反捕鯨団体赤インク「ぶちまけ」 検挙せずに豪州非難がネットで高まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071228-00000004-jct-soci
捕鯨めぐり日豪ネット摩擦 YouTube動画にコメント1万5000件
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/09/news061.html
問題の動画:白豪主義オーストラリアと反捕鯨(音がでます)
http://www.youtube.com/watch?v=e8lvep0-Ii0
捕鯨問題があるのは知ってましたが、何が争点なのかよくわからなかったので少し調べてみました。ウェキペディアによると以下の7点からです。
・資源としてのクジラ
・自然保護問題としてのクジラ
・知的生物としてのクジラ
・文化としての捕鯨
・原住民生存捕鯨
・ホエールウォッチングとの対立
・人道的捕殺問題
捕鯨賛成派の国は「日本、ノルウェー、アイスランド、デンマーク、ロシア、モロッコ、カンボジア」など。反対派は「英国、米国、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランド、フィンランド、フランス、スペイン、ドイツ、イスラエル」などです。
双方が様々な見地からの意見があって、文化・歴史・宗教的な背景もあり、おそらく利権も絡んでいるだろうから、恐ろしく複雑で噛み合っていない印象を受けます。YOUTUBEのコメント欄は各国が入り乱れての荒れ模様ですね。
活動家以外の一般市民がどの程度のレベルで、どういった感情を「捕鯨」に対して抱いているかわかりませんが、友達のカナディアンと話をしてみました。
「例えば、世界には犬を食べる習慣があるやんか。そういう話を聞くと現代日本人的には、やや不快感に近いものを感じるんだけど、この感情と西洋の国、たとえばカナダ人が「あの人達はクジラを食べいる」と聞いた時に感じる感情は同じようなもんなの?」
「その感情が同じものかは、なんともいえないけど、捕鯨に反対してる人って、いわゆる絶滅寸前だから、とかの側面が強いんじゃないかな」という答えでした。YOUTUBEの画像を一緒に見てたわけだけど、カナダ人の彼はさほど捕鯨に何も意見はないという具合でした。
捕鯨問題に関してさしあたって私は明確な主張があるわけではないけど、文化的な側面からの批判は避けるべきものであると感じています。自分とこの物差しで、相手を計ろうとするのは無理があるように思うし。
犬を食べていると聞いたら、多少の違和感を覚えることはあるけど、それはそこの国の習慣であって、部外者がとやかく言うことではないと思う。カンガルーにはごく一般的なかわいいイメージしか持っていないけど、それを食べる国があっても私は何も主張することもないだろうし。それが実生活に直結する生業ならば、なおのことです。
ただし、動物愛好家が「かわいそうだから」などの理由で、犬やカンガルーを食べたりすることに反対する心情は理解できるし、人間としては自然な感情のように思います。
国や文化、宗教関係の物差しを越えて、私達がもてる唯一の共通の尺度は、やっぱり「地球規模の環境保護」という観点からだと思うけど、双方の主張が食い違っているので、ここは話し合うしかないんでしょう。
動画の作者がどこの国の人で、動画の内容がどこまで信憑性のあることなのかはわからないけど、世間に訴える手法としてこれ以上ないぐらいに成功しています。その手法は素晴らしい。
---追記---
と、書いてみたものの「地球規模の環境保護」も、かなりうさん臭さを踏んだ言葉ともとれますね。
何かの本で読んだ記憶があるけど「多少の軋轢を残したまま永遠に話し合いを続けて引き伸ばし続ける」という、解決にはいたらない解決方法みたいな話もありなんじゃないかと思いました。









